スペクトラムに量子的

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臨床心理学について書くブログ

中井久夫著作集第3巻を読む

こんにちは。

今回は最近読んだ本について書きたいと思います。

 

中井久夫著作集〈3巻〉社会・文化―精神医学の経験

著者の中井久夫先生は、長年統合失調症の治療にたずさわってこられた高名な精神科医です。

また、その経歴を調べてみると、京都大学法学部→医学部転向→医師(ウイルス研究)→精神科医へ転向というように紆余曲折を経られているようです。

さらにラテン語をはじめとして複数の外国語に通じ、訳詩においては文学賞も受賞されている多才な方です。

僕が中井先生の名前をはじめて目にしたのは、臨床心理学系大学院の受験勉強をしていた時で、「風景構成法」という芸術療法のキーワードを覚えるついでにその考案者は、という感じでした。

日本人がある理論を構築したり心理的な査定法を開発するのは珍しいのでなぜか記憶に残っていたのですが、それから二度ほど別のチャンネルでその名前を見聞きすることがあったのです。

一度は勤務先の相談室の研修のときで、スライドには風景構成法がとりあげられており、患者たちの作品の変遷に目を奪われました。

もう一度は、飲み友でもある歴史研究家(大学准教授)の方と話している時に、その方が「中井先生の著作は自分のバイブル」であるとおっしゃっていたのです。

こうなると、ある種の運命に感じてしまい、読まないわけにはいかないと手を伸ばした次第です。

 

病跡学とは

さて、この本は全6部で構成されており、社会・文化に関する論考が多数掲載されているのですが、とくに面白いと感じたのは、病跡学の部分でした。

病跡学とは、宮本忠雄氏によれば「精神的に傑出した歴史的人物の精神医学的伝記やその系統的研究をさす」、福島章氏によれば「簡単にいうと、精神医学や心理学の知識をつかって、天才の個性と創造性を研究しようというもの」です。

引用元

http://square.umin.ac.jp/pathog/pathography/bing_ji_xuetoha.html

いくつか引用してみましょう。

ウィトゲンシュタインについて

ウィトゲンシュタイン(1889-1951)は、オーストリア生まれの哲学者。「論理哲学論考」「哲学探究」などの著作が有名で、言語哲学分析哲学に強い影響を与えたといわれています。病跡学の対象になるのですから、当然天才と謳われた方です。

 「すべての論理命題は一般化されたトートロジーである、逆も又真」という内容の、きわめて知的集中度の高い手紙に続いて翌年一月には「やっとこの二日間、亡霊たちのざわめく音の中から理性の声を再び聞き分けられるようになりました。仕事を再開せねばなりません。……でも、狂気からほんの一歩のところにいる、という感じはたった今まで判りませんでした」という戦慄すべき便りがノルウェーフィヨルドのほとりから寄せられている。精神科医ならば前後の文脈をみて―それは一見さりげないものだが―いっそう粛然たる面持にならざるを得ないであろう。

(p235-236)

たしかに、精神的に追い込まれているというようなありきたりの切迫感を超えた表現ですね。命の危機を感じさせるほどの。

野口英世について

野口英世(1876-1928)はみなさんもご存じのとおり日本人の有名な細菌学者。福島の寒村育ちながら努力の末アメリカのロックフェラー研究所の研究員にまで上り詰め、梅毒や黄熱病の研究で有名となり、ノーベル賞にもノミネートされました。

彼が援助された金を淪落的な一夜のために消費したのは、まさに母の汗の結晶を賭博と酒に空費する父の姿の反復であると同時に、そのことによって援助を取り消させ、その心理的圧迫より逃れて、母や援助者によって封殺されようとした自己の男性性を辛くもとりもどそうとしたのではなかろうか。また、信用をつみかさねては一挙につきくずすことは、賭博者の倒錯的快感に通じるだろう。

(p243)

小学生のころ伝記で読んだ野口英世のイメージといえば、「二宮尊徳的な修身の人」なのですが「援助を受ける才に長け、しかしながらパトロンからの援助金を浪費し、反省してはまた援助を求める」という現実的甘えと放蕩の側面があったことは全く知りませんでした。

病跡学だけでなく、他の論考についてもその切れ味はすさまじく、30年以上たった今でもその洞察の鋭さに脱帽することしきりで、「こういう知性のあり方が可能なのか」と感動すら覚えました。

 

読書はタイミング

この本を10代・20代の時に読んでもおそらくちんぷんかんぷんだったような気がします。それは中井先生の専門的領域だけでなく文学・哲学・歴史などについての縦横無尽な知識と深い洞察そしてその引用の巧みさについていけなかったであろうからです。

もっともアラフォーの現在であっても、中井先生の知見・洞察の表層をかろうじてなぞる程度の読解であるとは思いますが。そういう意味で、どの本をいつ読むのかというタイミングはやはりあるし、また読まれるのに準備を必要とする本というのがやはりあるのかなと。

 

個人的見解として、小説は思春期に読んでおくべきなのかなと思います。

思春期を経て青年期に至るためにはある程度の毒も必要でしょうから。

 

それにしても読書で感動したのは久しぶり。と同時に、世の中には自分の知らない凄い本がまだまだあるのだなあと、改めて自らの浅学を痛感したのでした。

 

ただ、購入するには高価で二の足を踏んでしまいます。

何度でも読み返したく手元に置いておきたいのはやまやまなのですが。