スペクトラムに量子的

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臨床心理学について書くブログ

「甘えの構造」を読む(2)

こんにちは。

引き続き、「甘えの構造」(土居 健郎著)についての覚え書き(2)です。

前回は甘えの語彙について書きました。そして日本人の人間関係は常に「甘え」というキーワードで貫かれており、その背景には《甘えるー甘えられる》という関係がみられるという趣旨でした。そこで今回は、甘えに規定された人間関係がどのような社会を形成しているのかというお話です。

義理と人情と無縁の世界

土井先生は、甘えによる人間関係の視点から、日本人社会は「人情の世界」「義理の世界」「無縁の世界」を形成していると言います。人情の世界は自然発生的な甘えの関係がみられます(ex.親子関係)。義理の世界は人為的に甘えが持ち込まれた関係(ex.友達関係)がみられ、無縁の世界は義理も人情もない世界です。

  • 人情の世界:甘えが自然発生する(ex.親子関係)
  • 義理の世界:甘えを持ち込むことが許させる関係(ex.友達関係)
  • 無縁の世界:義理も人情もない関係(ex.赤の他人)

こうした分類によると日本人は甘えの有無、もっといえば遠慮なく甘えられるか否かで人間関係の親密さを測っていることがわかってきます。ここでのキーワードは「遠慮」ということになるでしょうか。つまり「遠慮」のいらない関係こそが親密な関係であり、それは必然的に「親子の一体感」を理想とするようになります。

内と外

次に甘えの深さに関係する「遠慮」に着目してみましょう。日本人はよく「内」と「外」という言い方をしますが、その境界線が「遠慮の有無」という話です。図示すると、中心が個人で、三つの同心円が描けます。それと先程の人情・義理・無縁の世界が重なります。

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 ここで土井先生が指摘しているのは、内外というのは公私ではないということです。甘えをベースにしている関係上、同心円の外に向かっていってもそれは常に「私」の延長になります。そこで現れる形式は「閥」(ex.派閥、学閥)でその先に「おおやけ」があるとのことです。

さらに言うと、この「おおやけ」は西洋(キリスト教圏)における公共空間とは異なります。なぜならば公共空間は「私(プライベート)」とは切り離された空間であり、「おおやけ」はあくまで私の延長線上にあるからです。日本ではかろうじて天皇がこの公共空間の代用とされているのではと考えられるようです。

 

今回はここまでに。

「甘えの構造」を読む(3)へ続く