スペクトラムに量子的

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臨床心理学について書くブログ

「甘えの構造」を読む(3)

こんにちは。

引き続き、「甘えの構造」(土居 健郎著)についての覚え書き(3)です。

前回は《義理と人情と無縁の世界》と「遠慮」で区切られる《内と外の区別》について書きました。日本人は甘えの有無、もっといえば遠慮なく甘えられるか否かで人間関係の親密さを測っているという趣旨でした。今回は、その他にもみられる日本人の特徴について書いていきます。

罪と恥

恥について

日本人は世界的に恥ずかしがりだと言われますが、そうした恥の根源はなんなのでしょうか。土井先生はこう定義します。《仲間と思われたいが、そう扱ってもらえないのではないかという恐怖》であると。そして仲間であることを担保するのは、これまでも言及してきたように「甘えられるか否か」です。

一方、西洋(キリスト教圏)においては、ルネサンス以降、人間の自立こそが何よりも尊いとされ、彼らはそれを謳歌しました。「神は自ら助くる物を助く」という諺にもその思想が表現されており、近代西洋人は日本的な恥を疎んじてきた歴史的経緯があります。

罪について

さて、こうした前提を踏まえると、日本でよくみられる謝罪(たとえば半ば義務化された謝罪会見のような)の理由がよくわかってきます。なぜならば、日本人は罪悪感を《属する集団への裏切り》として捉えているからです。つまり罪ですら人間関係をベースに考えているのですね。ですから、罪を法律的に罰するのとは別に、「属する集団への謝罪」という作業が要請されるわけです。

一方、西洋(キリスト教圏)においては、もっと言えば一神教文化においては、罪における謝罪は罪滅ぼしとはリンクしません。恥についての項で述べたように、ルネサンス以降、人間の自立こそが何よりも尊いとされ、神が蒸発した世界において、罪は個人的主体が犯した罪であることとされているからです。

つまり問題(テーマ)になるのは、あくまでも個人的主体であり、罰されるのも個人的主体なのですね。そうすると「神への懺悔」は罪滅ぼしとリンクするかもしれませんが、「属する集団への謝罪」は罪滅ぼしと関係ありません。恥の扱いによって、こうも罪悪感が違ってくるというはおもしろいですね。

 

今回はここまでに。

「甘えの構造」を読む(4)へ続く