スペクトラムに量子的

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臨床心理学について書くブログ

「甘えの構造」を読む(5)

こんにちは。

しばらく更新ができなかったのですが、引き続き、「甘えの構造」(土居 健郎著)についての覚え書き(5)です。そして今回でひとまずはこのシリーズを終えようと思います。

前回は「甘えと自由」「くやしさ」に見られる日本的な特徴について書きました。今回は「個人と集団」についてメモしていき、ある程度の総括をしてみたいと思います。

 

個人と集団

土井先生は、本書での主題の一つとして「個人と集団の問題」を挙げています。日本人を欧米人と比較して捉えなおしてみると、個人としての弱さ/集団としての強さ、あるいは個人の自由が確立されていないという特徴がみられ、それらを「甘え」というキーワードでうまく説明されていると思います。

そうした日本人の特徴をまとめてみると《日本人は集団と一体になることによって個人としては持ち得ない力を発揮することができるのである》と結論づけています。しかし一方でこの傾向は「だから日本人は駄目なのだ、未熟なのだ」という批判の根拠にもなりやすいのではないかと思います。

空気に負けてしまう、自己主張ができない、人権について無頓着であるetc...いろいろとネガティブに言うことはできるでしょう。とはいえ、人間が集団生活を抜きに全くの個人で生きることはかないません。欧米人だって集団の中に生きているわけでから、まったく甘えがないということはないでしょう。

たとえば精神障害者は様々な理由により、集団生活が営めなくなり、まったくの孤立を生きているとも言えるわけです。さらに言えば、孤立とは、集団に甘えられていない状態を指し示してもいます。そうなってしまうとやはり、社会生活を送ることは難しくなってしまうのです。

というわけで、日本的な甘えのほうが欧米的な個人の自由に比べてレベルが低いわけではないのです。あくまでも傾向の違いであり、歴史・文化的な違いだと言えるでしょう。日本にも欧米にも甘え的要素は社会生活上必要なのですから。

個人の自由の正体

では、なぜ欧米では、「個人の自由」が発達し、日本では発達しなかったのか。土井先生はドイツの社会学ジンメルの論文から着想を得たようですが、概ね次のように考えていたようです。

日本において個人の自由が発達しなかった理由

(1)集団が同心円的な構造をつくっている。

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これは、以下の過去エントリでも解説しましたが、日本人の内外に区分けする考え方によるのではないでしょうか。

spequan.hatenablog.com

(2)集団が寄合世帯のように並列している。

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(1)(2)いずれも、個人の所属する集団同士が相互に交差することはありません。一方ヨーロッパにおいては、以下の図のように、個人の所属する集団同士が相互に交差していたのではないかと土井先生は推測されています。

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では、ここまでのまとめとして、本文最後の一節を引用します。

個人の自由といっても個人が個人のままで自由なのではなく、所属集団と本来関係のない別の集団に参加するという事実によってはじめて自由を獲得するのだ。西洋ではこうした集団交差の契機が恐らくはじめから、というのはジンメルのいうように近代になってからではなく、もっと早くから具わっていたのではあるまいか。

個人的な理解としては、個人の自由といってもそれはあくまで、集団との関係性に関わる自由であって、そうであるからこそ公と私の区別や人権思想なども発達してきたのではないかと、そう思いました。

これにて、「甘えの構造」を読むシリーズは終結とさせていただきます。

今回はここまでに。