スペクトラムに量子的

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臨床心理学について書くブログ

甘えとしごきとスポーツと(1)

こんにちは。

8月に入った途端に梅雨のような連日の雨なのですが、この時期の風物詩といえば夏の甲子園高校野球です。今年は強豪校が早い段階で敗退し、甲子園を去ってしまうことが多くみられるようで、これも異常気象のなさせるわざなのでしょうか。

さて、ここで本題へ。今回はタイトルにもあるように、「甘え」と「しごき」と「スポーツ」について書いてみたいと思います。日本では部活レベルだけでなく、プロレベルのスポーツ界でも「しごき」と称した「体罰」がしばしば報道されます。では彼ら(指導者たち)は何を目的に「しごき」を行うのでしょうか。

水を飲ませない精神鍛錬

そういえば、私が中学のサッカー部に所属していた20数年前のこと。顧問の先生が真夏の練習時に「水を飲むな!」と怒鳴りつけていました。あの頃はわりといろんなスポーツ界隈でそんな不条理がまかりとおっていたように思います。私が愛読していたサッカー専門誌には「きちんと水を摂りましょう」と書いてありましたが、口ごたえすれば殴られる時代でしたから。。。

2017年の現在において、水を飲ませない指導者(監督・コーチ含む)*1がいた場合どう判断されるでしょうか。間違いなくアウトです、生死にも関わりかねませんからね。20~30年前までは普通だった振る舞いが、今では指導者失格の烙印となるわけで、ひょっとしたら虐待のそしりを受けるかもしれません。SNSでの炎上は間違いないと思われます。

では、水を飲むようになった現代の選手達の精神はその分弱くなったのでしょうか。ある意味では弱くなったと言えるかもしれません。喉の渇きを我慢して無理に頑張るとかそういう意味においては。しかしながら、我慢して頑張れることと精神的な強さは関係があるのでしょうか。

「命令→服従」の強化システム

たとえば仮に「水を飲ませない」ことで「忍耐力が身に付く」と考え行動した場合、指導者と選手の関わり合いは以下のように分析できるでしょう。

【指導者】水を飲むなという「命令」

 ↓ ↑

【選 手】思考停止を伴った「我慢」の強化

 

指導者は水飲みを禁止するわけですが、それが合理的であろうがなかろうが、なんらかの鍛錬になると思って命令を下しているわけです。かたや選手はその禁止命令が合理的であるかどうかの判断は脇に置いて、とりあえず「我慢」することを目的に行動します。そうするとどうなるか。

指導者は本来の目的である競技能力の向上を脇目に、自身が下した命令の効き具合に目を奪われ、徐々に「命令→服従」の行為そのものが目的化していきます。そして選手は責任を伴う判断を放棄し、服従することで「一生懸命やった感」を演じるようになります。両者ともにもはや競技への視点はありません。

このシステムを仮に「しごき正当化システム」と呼びましょう。このシステムの質の悪さは、双方ともに、本来の目的を忘れ「命令→服従」の行為を強化するように行動してしまうことことです。そして、ここにおける指導者の報酬は「選手が命令をきくことで得られる満足感」であり、選手の報酬は「やった感を演出して指導者に承認してもらうこと」です。

本来の目的から大きく逸脱した状態でありつつ、指導者・選手双方が全く違う目的で行動しているのに、全体的にはなんとなく頑張った感が得られる、というこのシステム。これをドライブさせる燃料はいったい何なのでしょうか。とりあえず結論めいたことを言えば、それは指導者・選手双方に備わっている「甘え」だというのが私の認識です。

 

と、なんだか「甘えの構造」に引っ張られる展開になってきました。少し頭を整理して、続きはまた次回へということで、今回はここまでに。

 

*1:日本のスポーツ(格闘技も含め)における指導者の呼称が持つある種の混乱は選手との関係性にも影響を及ぼしているのではないか。