スペクトラムに量子的

スペクトラムに量子的

臨床心理学について書くブログ

甘えとしごきとスポーツと(2)

こんにちは。

引き続き、甘えとしごきとスポーツと(2)について書いていきます。

前回は《しごき正当化システム》について私見を述べ、その末尾を、双方の甘えが駆動燃料になっているのではないかと結びました。

指導者の抱える甘え

指導者は選手の抱える甘さが気にかかるものです。例えば、勝負に徹しきれない弱さとか、自己管理ができないだらしなさとか、此処一番で緊張してしまうハートの脆さとか。

ネガティブな要素を一緒くたにシンプルに捉えようと思えば《甘え》というキーワードが便利です。「甘えは気持ちから来ているのだ!気合が足りないからだ!」と理由づければ単純化して理解できますから。

しかしながら、選手の抱えるネガティブ要素は、おちついて考えれば、個別に対応が必要であり対処可能な問題です。専門的な理論・知識とその応用が求められるので手はかかりますが。

そうした問題解決への正しいアプローチをないがしろにするのが《しごき》です。しごきが成立するためには、選手たちの我慢強さあるいは服従を必要としますが、それが指導者の抱える甘えといえるでしょう。

選手の抱える甘え

一方、選手の抱える甘えとは何か。それは学校における教師と生徒の関係がそのまま持ち込まれた《指導者ー選手》の関係に起因します。そしてこれはかなり日本的な、もっと言えば儒教的な上下関係が背景にあると考えられます。

選手が鍛えるべきものは競技に必要な技術・体力や判断力ですが、指導者からの指示待ちトレーニング受け続ければ、自分で判断するという力は身に付きません。判断に伴う責任すら回避しがちになります。

また、競技レベルが上がれば上がるほど、競技者は自分自身をクライアントとしてマネージする能力が必要です。つまり自分自身がプレーヤーであり、そのプレーヤーを自分自身が雇っているという感覚です。

《指導者ー選手》の関係に《教師と生徒》の関係が強く持ち込まれれば、必然的に自分自身をマネージするという感覚が乏しくなります。結果的にこれが甘えと認識されるわけです。

ここで明らかになったのは、選手の甘えは指導者の甘えによって涵養されてしまうということです。強い文化的背景はありますが、それを乗り越えるためには、まず指導者の努力が必要になるでしょう。

そしてその努力は《しごき》によってではなく、理論と知識に裏付けられた厳しさによって行われるべきでしょう。まずは指導者と選手がある種の対等さを意識することがそのスタートになるのではないかと思います。

今回はここまでに。