スペクトラムに量子的

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臨床心理学について書くブログ

「甘えの構造」を読む(4)

こんにちは。

引き続き、「甘えの構造」(土居 健郎著)についての覚え書き(4)です。

前回は「罪」と「恥」に見られる日本的な特徴について書きました。今回もそうした特徴について本書に記述があったものをメモしていきたいと思います。

甘えと自由

日本的な意味での「自由」とは本来は「自由気まま」であることを意味すると土居先生は喝破します。これは「甘える自由」であり、別の言葉でいえば「わがまま」であることを意味します。

一方、西洋における「自由」は古代ギリシャにおける「自由人」「奴隷」の区別に由来するとのことです。つまり自由であるということは、強制的に従わされないことであり、「個人」の「集団」に対する優位性の根拠となっています。そして西洋ではこれは一種の宗教であるともいえます。

では、個人と集団という観点で日本的な自由(わがまま)を考えてみましょう。この背後には《集団が個人の思い通りにならない》という前提があり、だからこそ《自由にしたい》という欲望が見て取れます。つまりこのシステムで生活する日本人は個人が集団を超越できていないのです。

くやしさ

土居先生は《日本人は得てしてくやしい感情を持ち、また奇妙なことだが、それを大事にする》と言います。こうした性分を表現する別の言葉で思いつくのは判官贔屓ということになるでしょうか。wikipediaによれば《人々が源義経に対して抱く、客観的な視点を欠いた同情や哀惜の心情のこと》という定義で、簡単に言えば「弱い者の肩を持つこと」です。

では、判官贔屓の物語に惹かれてしまうその背景にはどういう構造があるでしょうか。本書によれば《歴史上の人物でくやしさを経験した者と思われるものに同一化し、その人物を持ち上げることによって、自分自身のくやしさのカタルシスをはかっている》という説明がなされています。

この分析はフロイトいう防衛機制 - Wikipediaという考え方が援用されています。防衛機制とは「自我を守るための防衛メカニズム」であり、「同一化」はそのなかの一形態です。たとえば、有名人のファッションを真似るというのがそれに当たりますが、判官贔屓はその気持ちを汲んだうえで、持ち上げることによって、くやしさのカタルシスをはかるところが、なんとも複雑でおもしろいですね。

 

今回はここまでに。

「甘えの構造」を読む(5)へ続く